文化・芸術

2009年6月15日 (月)

「絵を踏みしだく男たち」

「絵を踏みしだく男たち」

 キャンバスをキャベツのように丸めて、踏みしだく。絵がすでに描かれているキャンバスである。もちろん、こんなことをしたら、塗り重ねた絵の具が無事なはずはない。とにかくあっけにとられながらも、言うとおりに私は踏む。
 指導者はキャンバスを少し広げてみて、踏み足りないところをまた踏む。
「こうするとね、こぼれた絵の具が良いマチエールをつくるんだ。」
 すぐには何を言っているのか分からなかったのだが、こぼれた粉を集めて透明の瓶に入れておいて、上から描く絵の具に混ぜていくと、調和がとれるらしい。
 これがパレットなどの絵の具だとねばついて、あまり使い勝手は良くないという。
適度に乾燥しているのが、使いやすいというわけだ。
「では、ふだんからキャンバスをパレットにしているといいんでは」
「そういう人もいるな」
 とにかく意味が分かってきたので、私も迷いなく、どんどん丸めては踏む。
 こんなことをしながら、粉を販売できたなら、けっこう良いかもと思ったりする。
 絵を描くことは「破壊と創造」であるとはよく言ったものだ。まあ、何も怖い物はないなと思う。
 

2009年6月 5日 (金)

「利き酒ならぬ利きガソリン」

「利き酒ならぬ利きガソリン」

 「利きガソリン」とは、バイク屋の店長Kの造語である。
 最近のバイク屋は、利きガソリンができないと、やっていけないという。幾分、胸をはった言い方であった。
 事のおおまかなことは、次の通りである。ガソリンの粗悪品がかなり流通していることにある。それで、ガソリンで動く乗り物で、特にバイクはてきめんにその能力が左右されるというのである。
バイクなら小さい50cc。車なら軽トラックである。車両の寿命さえ、影響が出るとK氏は断言する。
「ニオイをかげばわかりますよ」と店長はよった。
 それで、赤い携行タンクの脇に私を呼んだのだが、そのタンクがさしずめワインの樽のようにも思えてくる。確かに、私のバイクのタンクから香るものと、そのワインのようなガソリンとは、かなりニオイに差があることはうなずけた。飛ばし屋だから、バイクの性能に関しては、とぎすまされているのに違いない。
 ということで、私はハイオクを使うことになった。今しばらく、粗悪ガソリンを使い切ってから、極上のワインのようなガソリンを愛車に飲ませるのだ。

2009年5月 8日 (金)

「老夫婦のテーラーその2」

「老夫婦のテーラーその2」

 老夫婦のテーラーの話にはこんな後日譚がある。
 翌日の夕方、私はテーラーに立ち寄った。夕方には上げておくという店の主人の約束だったから、午後4時10分ほど前、少し早いとは思ったが店のドアを開いた。昨日もお茶を飲みながら時間の経つのも忘れてしまうほどだったので、そんな風にしているといいだろうと思ったのである。
 先客は2人いた。この方たちは店の奥さんの話友だちである。近所の四方山話をとめどもなく話してくれる。自分のことも過去現在未来と自由に縫い合わされていく。
 その間、店の主人はミシンに向かっていた。実は、私のズボンはまだ仕上がっていなかったのである。理由を説明してくれたところによると、バンドの通すところが、このズボンのメーカーは1本少ないというのだ。それで、両サイドに一つずつ予備の布から作ったものをつけているというのだ。実はその二本だけの問題ではなくて、取り付けの間隔もあるから、ベルト通しのほとんどを外して付け直していたところだったのである。これは、もとはといえば、私のふくよかな(笑)体型を考慮しての作業なのだろう。まだ、裾直しには手が回っていないのである。
 どんな仕事をするのか興味もあったので、ベテランの女性たちの会話を聞きながら時々ご主人の手元を観察させてもらったのである。
 なにせ八十を過ぎているご主人は、おでこにゴーグル型のルーペをつけている。
手元の作業が細かいときは、それでのぞきながらやるのだ。ミシンには、裸電球が取り付けられている。裾の部分を裁ってからも実に仕事は丁寧にたんたんと進んでいく。白い糸で仮縫いをしているのは、これを目印にして縫うためである。糸も何種類もある。何号とか何番とか印刷されている。手で縫うときは、その絹の糸をいったんアイロンの角に当てながら引いている。これは糸にアイロンをかけているのだろう。
 ミシンの各部分に糸をセットするときは、主人も手がふるえている。難しいことを注文してしまった私はなるべく直視しないようにする。ミシンも四種類くらいある。どうやって使い分けているのか、素人の私には分からない。靴当ての部分なども手作りである。そうして、縫い終わる一区切り一区切りに、主人はズボンにアイロンをかける。
 お皿に入れた水を刷毛につけると、ズボンのその部分にかぶせた布を少ししめらせる。それからアイロンをかけるのだ。その間、ズボンは大きなお饅頭のようなクッションのようなものの上で、実に折り目正しくなっていくのだ。私は何でも物珍しいので、その大きなお饅頭をさわってみたりする。そうすると主人は笑いながら、しかし無言で仕事を進めていくのだ。実に慎重で丁寧なので、見ていると引き込まれて息がつまるような作業の連続だ。
 こうして、ズボンが仕上がったのは七時頃である。実に三時間。通常の野球の試合よりも長かったが、私は飽きなかった。申し訳ないという気持ちだった。そういえばお茶菓子でもかってくれば良かったな、などと思った。
 奥さんが、ぽつりと言った。
「私は婦人服専門だからね、裾上げなんか三十分なんですよ。いい加減だしね。婦人服はゆったりしても許されるから、でも、紳士服はそうはいかないからね。この人は手を抜かないんです」
 事の最初から最後まで、外では雨が降り続けていた。車で送ってくれるというのを断ると、とれたてのエンドウ豆をつつんで持たせてくれた。優に二回ほど我が家のおかずになりそうなほどの豆だった。(おわり)
   

2009年5月 5日 (火)

「老夫婦のテーラー」

  「子供の日」は、昼ごろから天の恵みの雨となった。昨日まで、連日土いじりだったので、大人の私も今日は心底うれしかった。
 ラベンダーやセージ、カモミール、バジル、ミント、レモンバームなどのハーブ。
 コリウス、ペチュニア、けいとうの苗。加えて、七袋の草花の種。
 畑の方は、インゲンの種を三袋。トウガラシの苗を十株。サツマイモの苗を二つ。満願寺トウガラシの苗も遊びで一株。落花生の苗を十株。
 極めつけは、バラの新苗を三種類だった。
 赤い蔓バラ。四季咲きのハイブリットティーローズ、オールドローズ。
 とまあ、こんな草花や野菜を、次から次ぎへといろいろ仕込んだのだ。
 それぞれの種と苗も、雨の中で一息ついているはずである。……
  それにしてもこのごろの予報はあたるものだ。変な言い方だけど予定通りの「一日中フリー」だった。東京に出て、美術館を二つ回ってみた。
 帰路、一つ前の駅で降りる。今日はテーラーに用がある。
 歯が抜けるように、一つまた一つと店がなくなった旧道沿いも数えるほどの店しかなくなってしまった。
 八十歳を超える老夫婦のテーラーにはずいぶんお世話になっている。最初、ジャケットのボタンがとれてしまったので、それを付けなおしてもらったのが縁だ。その時は、ボタンをはずしながら主人が、
「こりゃ、お客さんオーバーのボタンだよ」と笑いながら言った。
「よくまあ、入ったもんだね」
 ボタンを通す穴とボタンを並べて、感心している。
 そういわれて、私もようやく思い出した。
 もともとついていたボタンが外れてなくなってしまい、妻にボタンを買ってきてもらい、とめてもらったのだった。 
「ボタンにもいろんな種類があるんですね。見ただけで分かるんですか? 知らなかったな」
 心の中で私は冷や汗をかきながら頭をかいている。
「素人がこれを付けたのは分かるけど、ずいぶんとまあ苦労したね」
 慈しむような手つきで取り付けてくれたのだが、料金は受け取らなかった。もちろん上着はそこで買ったものではない。
 この店は近くの人のたまり場のような所になっていて、お茶とお茶菓子が出てくると三十分は話し込むことになる。
 こんなことが縁で、その後ワイシャツも仕立ててもらった。高いのは予想していたので、ここぞというときに使う物なのだが、これがまた手触りからして違う。まったくの別物だ。普段使用するものは、中国製の500円のワイシャツだったりするので、違いが私にもよく分かる。
 今回は春から夏にかけてのズボンを買った。スラックスとか今風に「パンツ」と言った方がいいんですかね。とにかく、私の財布の中身は今をときめく定額給付金である。
 私は実の母親と同年齢の店の婦人と茶飲み話をする。ガンの術後だというのだが、婦人の表情は明るい。抗ガン剤が体に合うようで、髪の毛も抜けないし、食欲もあるという。いろんな話をしているうちに三十分などあっと言う間に過ぎてしまう。私にはこんな時間がかけがえのないものなのである。(終わり)
 
 

2009年5月 4日 (月)

「穴」

 久しぶりに穴を掘るはめになった。文字通りの単純な「穴」である。そこに、畑で抜き取った雑草を放り込む予定だ。
 三角形の借り物の畑はふかふかの土である。その畑のはじの日当たりの良い場所にスコップをたてた。表土は三十センチほどの厚さしかなく、その下は一様に瓦礫である。側に生える樹木の根がその境界の部分ですでに水平にはっている。下には潜り込む隙間さえないのだろう。川で運ばれてきた玉の石と粘土でできた瓦礫の層だ。住宅でも建てるのならば、しっかりとした土台になるだろうと思うのだが。
 人力とはひ弱なものだなあと思いながら、こつこつと地道に掘り進む。腰を用心しながら一日に十五分、二十分と気長に続けて一ヶ月。ついに首から下が埋まるほどの深さにまで到達。ようやく雑草を抜き取り始めたのだが、けっこう雑草も成長していて、これはこれでかなり手強い。
 さて、何を植えようか。ゴールデンウィークのさなかである。ちょうど間に合ったという感じだ。
 もう一つ、遠大な計画を練る。草取りはきらいなので、畑の畦(?)の部分にはラベンダーやミント、レモンバームなどのハーブを植えよう。そして、来年はお花畑に替えてしまおう。カモミールやハルシャギク、コスモスなんかなら、放っておいてもまた生えてくる。そして、一番良いのは日陰をつくるので、畑の草取りが楽になることなのだ。
 とにかく今度の勤務の場所は、自分の家を基準に考えると、優に四軒分を超える広さを管理しなければならないのだ。ま、とにかく片手間でできる広さを超えている。ご利用は計画的に片手間でやらなければならない。

2009年4月14日 (火)

絵を描くためとはいえ

口をぽかんとあけて何かをはき出して

いるような間抜けな顔を自分で撮る。

いえいえ某上人の像のイメージに重ねて

いるのですぞ。

 しかし、そんな厳かな雰囲気はでない

なあ。自分でも笑えます。

Kuuyasyouninn

2009年3月18日 (水)

『鼻の低い人が美人』

  さて、私の絵の先輩に、女性でスタイリストの方がいます。著名なデザイナーと仕事をしているそうです。仮に自由が丘さんとしておきましょう。自由が丘さんの話によるとクレオパトラの鼻は十分低かったそうです。
 彼女は仕事でヨーロッパや中東へ行く。そこで目にするものは、鼻にばんそうこうを貼った人たちだというのです。それもかなりの数らしい。実は彼らは、鼻を低くする整形手術をした人たちだというのです。それで、現地では自由が丘さんも、たくさんの人からこんな風に話かけられるそうです。
 「あなたは、鼻を低くする整形手術をしたんでしょう」
 もちろん、羨望の声音を帯びているわけですね。
 これは、一体どういうことなのでしょうか。
 三宅さんの主張によると、西洋の映画のスターは、鼻の低い人がなるというのです。鼻の低いかわいらしい人がスターなのだそうです。どういうことかというと、西洋人やアラブの人の鼻の高さの平均値は、とほうもなく高いというのです。さしずめグランドキャニオンの谷底に深淵なるくぼみがあってそこに目玉がはめこまれているというのです。ま、これは、いささかおおげさですが。(笑)
 ですから、日本人にとっては鼻の高い映画スターでも「鼻の低いかわいらしい人」ということになるのですね。
 自由が丘さんの説の正しさは、裏付けるまでもないようです。というのは、私の妻はピアノをやっていまして、その先生の一人にはパイプオルガンの演奏家で仮に長野県先生ということにすると、この先生も同じことをおっしゃっていたというのです。
 蛇足ですが、名言の一つに、クレオパトラの鼻が低ければ世界の歴史が変わっただろうというのがありますね。
 こうなってくると、あの名言はどうのように解釈したらいいのでしょうか。
 わざわざ書くのも面はゆいのですが、普通ならばこの様に解釈していますよね。美人ゆえにシーザーなどの人生をも翻弄した。ゆえに美人でなかったならば、歴史が変わっただろうという意味のことです。
 ですが、ですが、さらに鼻を低くすれば、もっと美人になり、シーザーのライバルがうじゃうじゃ沸いてきて、世界の歴史がとんでもないことになるだろう。そんな風に考えるといいんですかね。

2009年3月 1日 (日)

手前の部分

 手前の部分を大きく描く。

わかっているんだけど、なかなか描けない。この絵だと下半身。手前にあるから。少し大きめに、それからアクセントをつけなければ。ちょっと自分が情けない。

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2009年1月21日 (水)

東京銀座にて絵画のグループ展

   ニッチギャラリーで、飾ってもらっている。

至福の時。来週は、上野の美術館のコンクールに

別作品を出品。

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2009年1月 3日 (土)

手作りの仮縁(かりぶち)

 仮縁(かりぶち)を元旦に作った。二十号と三十号用の二つ。中身の絵は9月から4ヶ月かけている。こちらはもう少し。一月に、美術館のコンクールに出します。

Kaributi

2008年12月17日 (水)

「ポケットの中のボールペン」

 私はおおげさに言えば筆記具のフェチである。
 他の人がそれほど筆記具を持っていないということに気づいたのは大人になってからである。というか、人は大人になると案外筆記具を持っていないものだし、手にしたボールペンの具合がいつも悪いなんてことはままあるのをよく目撃している。
筆記具に限らず、たまにしか使わないものは大体具合が悪くなっているものだ。
 私が多量の筆記具持っているのは、そういう職種なことも理由だが、もともと字を書くのも絵を書くのも好きだからだ。普段は、小さなクロッキー帳と一緒に、ボールペンを身につけている。だけでなくいろいろな所に置いておく。自分自身ですら、どれくらいの筆記具を持っているのか皆目分からない。
 ボールペンだけでも一時期は工具箱に入れておくほど持っていた。種類はルアーのエサにそっくりのフィッシュペンまである。
 ボールペンは書くだけでなく、別の使い道もある。例えば配電盤のふたを開けるときなど鍵がなくてもペン先の部分をさしこんで開けることができるのである。
 万年筆もこだわっている。高価なものはないが、手作りのエボナイト製のものがある。こいつは、インクの入れ方がてこ式という歴史的な方式のものだ。持ち歩きはあまり適さないが、じっくり腰をすえて書くとき、雰囲気がある。何よりインクのにおいも色もぐっとくる。
 ところで、そんな私であるので、失敗も多々ある。たとえばワイシャツのポケットにインクをにじませてしまったりは茶飯事。この間は買ったばかりのズボンスラックスのポケットにボールペンを入れたまま洗濯したので、ペンもスラックスも両方使えなくなった。油性のインクのしみがあちこちに出来たので、ま、仕事にはいけないのだが、何かの作業の時つかえる気がして取っておくのだが、実はそういう衣服がたくさんあるのである。
 こうなってみると、たかが百円の筆記具のせいで数千円の衣類をおしゃかにしてしまう。それなのに、依然としてボールペンはポケットの中なのである。こういうのを業というんでしょうか。(おわり)
  

 

2008年12月 6日 (土)

「図書リサイクル」への違和感

 私は図書館が好きだ。本好きである。
 職場付近の図書館は、曜日によっては午後七時まで開いているので、職業を持つ私としては願ってもない娯楽空間なのだ。時間のないときは背表紙を眺めていくだけでも、私には快い旋律の音符を眺めているような心地良さがある。
 そんな私であるが、さびしい思いをすることが一つある。それは、年に数度、リサイクル本と称して、本の入れ替えがあることである。借りる頻度の少ないものの中から廃棄を行い、捨てるのももったいないので、そういう気持ちのある人にもっていってもらうシステムなのである。
 確かに本も消耗品となってしまった。けれども、私の中では本は永遠の命を持つ知識や知恵を与えてくれるものなのだ。だから、本棚をたくさん置いた書庫のような部屋を自宅に作っていたほどである。並べたり手にしたりすることが好きなのだ。
 話がそれてしまうのだが、大学生のとき文芸同人誌を作っていた。それに興味をもった図書館の人が、それを保存してくれると言ったときは天にも上る気持ちだった。早合点で思い込みであるが、永久に保存してもらえるような錯覚があったのだ。つまり、おおげさに云えば自作が美術館に飾られた画家のような心持であった。
 普段利用する図書館はもともと過剰な本の数があるようで、場所場所に積まれた本もみかける。雑誌の種類が増えたように、図書に対する需要もまったく多様化するとともに価値も相対的に低くなり寿命も短くなりつつあるのではないだろうか。(おわり)

2008年12月 2日 (火)

「5年目の会話」

 毎日私が利用するJRのT線の下りは、さほどこんでいない。グリーン車が二両できたおかげで、座れない人もいるという程度である。少し頭を使えば、次の駅からは座ることができる。 
 さて、そんな状態だと、話したことはないが顔見知りという方がたくさんいらっしゃる。
同じ駅をおり、前後して改札を出、それぞれ職場に向かう。そんなくり返しの中で、お互いの様子はかなり観察し、記憶に残っているものだ。分析もする。どこの駅で降りるのか。どこに座っていることが多いか。荷物やカバンはどんなものを使っているか。電車に乗っている間、何をしているのか。そんなことである。話しをしたことはないのだが、どんなことをしている方なのかと思いを巡らすことはある。また、お互いに尊重しあっているところもある。例えば、席が一つしか空いていないときなど、何がなんでも座ろうという行動には出ない。エチケットである。同じドアのところに顔なじみがいれば、順番を互いに尊重する。ま、そうではない人もいるにはいるのだけれども。大概、必要最低限のエチケットは持ち合わせているつもりである。
 さて、そんな人たちの中に、ハンチング帽をかぶった痩せて背の高い紳士がいた。一番最初目にとまったのは、Dパックを背負っていたからだ。これは私と同じだから。私との違いはそれがしゃれたつくりで小ぶりなこと。私のように1000円のものではない。中から小型のパソコンを出して、車内で仕事をしている時もある。私もパソコンは仕事で使うので、気になったようだ。身のこなしは若い。しかし、顔を見るとあごひげに白いものがちらほらしており、私よりも幾分若いぐらいなのかもしれない。そんなことを思いながら、挨拶を交わすわけでもなく5年ほどの年月がたった。
 ところが、先日、ふとした拍子に声をかけられた。
「絵がお好きなんですか?」
 初めて聞く声だったので、戸惑った。
 相手は、私が時々、キャンバスを持って電車に乗るのが気になっていたようだ。私もじっくり観察されていたらしい。そして、よかったら絵を見せてくれないかとおっしゃった。
 私は、趣味で描いている。そんな簡単な説明をした。相手は本格的に絵を描いていらっしゃるようだ。ただ、それでは、生活できないので、他に仕事をもっていらいっしゃうるとのことだ。
 相手はともかく、私は年齢それなりに生活にくたびれた様子もにじんでおり、そんないい年をした男がときどき絵の道具を持っていたり、アイデアスケッチを描いていたり、美術のたぐいの本を眺めていたりするものだから、先方も気になったのだろう。ま、玩具のようなものを手にしていないと、生活に潤いがないわけである。そうした者同士が引き合う磁力のようなものもあるのだろう。
 翌日から、笑顔で挨拶を交わすような間柄になった。そして、自作そのものではないのだが、作品の絵はがきなどを渡した。 (おわり)
 

2008年12月 1日 (月)

「ファーブルの真実の姿」

 フランス人のファーブルといえば昆虫記だろう。これは、彼の晩年の著書。私は子供の頃、夢中になって読んだ。フンコロガシとか興味をもって読んだ。ところが、最近別の本を読んでいて、ファーブルに対する自分の認識がかなりいい加減であることが分かった。第一、彼が単なる昆虫学者であると五十年間も思い込んでいたのである。
 実は彼は、天才的な化学者であった。ノーベル化学賞受賞の福井氏の著書「学問の創造」によれば、彼はアリザニンという染料の効率良い抽出に成功する。その功績でレジオンドヌール賞を得、時の皇帝ナポレオン三世に謁見するほどの人物であったという。
 話がそれるのだが、イギリス人のニュートンといえば、歴史上の偉大な科学者であることは、誰もが認めるだろう。ところが、これもよく知られていることなのだが、彼は錬金術の研究に熱中していたのである。もし彼の研究が成果が上がっていたのであれば、彼の「科学者」という肩書きは錬金術師になっていたのかもしれないのである。
 さて、ファーブルに話を戻そう。
 ファーブルは、貧しい農家に生まれ、苦学を重ねながら師範学校を卒業する。しかし、彼の夢は大学で研究者となることであった。そのための研究費を捻出するためにアリザニンの抽出技術の特許を取ったわけである。
 アリザニンとは、茜の主成分である。ところがである。運命も歴史も皮肉に出来ていた。
 ファーブルの功績と前後して、隣国ドイツはアリザニンを人工合成することに成功したのである。天然のものを抽出するよりも無尽蔵に人工合成する方が、効率が良いことはいうまでもないだろう。 なんということだろうか。私がファーブルなら神も仏もあったものではないと泣き叫ぶかもしれない。しかし、不屈のファーブルは、 
「我、働かんかな」と呟き自分を励ましたという。
 ぐっと胸にせまる言葉である。る何という強靭な精神力であろうか。
 「明日は明日の風が吹くさ」とでも意訳すれば感じがでるだろうか。
 こうしたことも、昆虫記の十巻の最終章にのっているという。私の読書はいいかげんなものだ。そうした記憶もないし、すっかり見落としている。興味を持たれた方は、ファーブル昆虫記を再読されたい。時間がなくて、気になる人は、福井謙一氏「学問の創造」の62ページから65ページを読まれるといいだろう。
(おわり)

2008年11月30日 (日)

「細密画のワイエスと緊縛の荒木経惟(のぶよし)」

 渋谷のbunkamuraまでアンドリュー・ワイエスを見に行った。ワイエスの作品は、その昔、秩父で「決闘」という作品を見た。海岸近くにある岩と鯨取りの銛が描かれていた。私の大好きな作品であった。
 今回は、ある細密画の画家に勧められて、行く気になったのだ。
 場所は銀座、例えばリンゴと鉄パイプやボルト、釘の構成である。アクリルであるというが、非常に緻密な作品世界だ。柿の作品もあった。その実の切り取った後が鋭利であったのだが、ふれれば手をきられそうなその切り口が、単なる切り口ではなくて、ボルトや鉄パイプなどと同列の人工的な何かに感じられるほど、作品世界は独特のものをもっていた。
 運良く、その作家と会話することができた。作家はワイエスに共感するものがあるといった。作家の作品も、ワイエスも、私には雲の上の存在である。そんなことをいうと、作家は笑うのであった。……
 さて、bunkamura。
 今回の催しは、一つ一つの作品について、水彩画、鉛筆画、テンペラ画が並んである。実にねばり強く執拗な制作態度ではないか。画風そのものではないか。それらは、一応、テンペラ画を本作品とでもいうのならば、その他の作品は「下絵」と呼ぶこともできるかもしれない。事実、私はそのように納得しながら、途中まで作品を鑑賞していたのである。しかし、姉を描いた絵は、鉛筆画で終了していた。作者はこの絵は完璧であるという。つまり、テンペラ画を描く必要はないということだろう。
 そのうちに作者へのインタビューVTRを見る場所があった。そこで、作者は、テンペラ画がゴールというわけではない。自分で勝手なルールをつくるのは、危険だと言っていた。ワンパターンはないというのである。 
 慣れでは、作品を制作していないのである。なんと謙虚でどん欲な主張であることか。
 さて、ワイエスやフェルメールが日本人のお気に入りであり、画家もそのようにして彼らを手本にし、追い求めることが流行のようなかんじとなっている。二人の作品に関する共通点は、自分の身の回りのものを丹念に描くということである。
 しかしながら、私は実物を見ながら、本物と偽物(まねっこというか)の違いがはっきりと分かったのだ。
 自分の身の回りを丹念に描くのならば例えば写真を写すことで、かなり肉薄できるような錯覚があるだろう。そこが危険なのだ。
 ワイエスにしても、何も写真を見て描いたような作品は一枚としてないのである。
まず、感じる自分があって、作品を制作しているのだが、モチーフがたまたま自分の身の回りのものということであって、着眼点や制作態度というのは、石ころのようにどこにでも転がっているようなものではないのだ。はやりを追い求めている人たちは、それが、わかっているのだろうか。
 例えば何気ない生活の中に、奇妙な独特の世界を描きだす小説に似ていて、その描写力たるやワイエスやフェルメールはとんでもない巨人なのだ。ベニスやパリを描かなくても自分の世界を持っているのだから。

 さて、渋谷から地下鉄で一駅で表参道に行った。南青山で、写真家の荒木経惟の作品を見る。高校生の頃、「ガロ」というコミック雑誌を読んでいた。その中で、荒木氏の作品は楽しませてもらっていた。今回、彼の妻の「陽子」の写真集を買った。
 さて、妻の写真で飯をくう。なんとお手軽なことを、などと考える人もいるかもしれない。でも、これもワイエスやフェルメールと似たようなもので、誰も自分の奥さんを裸にして写したり、ましてや濡れ場を公表できるものではないことは一目瞭然ではないか。ましてや、それは荒木の作品世界であって、まねすることができたとしてもその人の作品世界ではない。などと考えれば、オリジナルの芸術というのは何とすごいものなのか。こういうため息で、今日の文章は終わりにしたい。 

(おわり) 
 
 

2008年11月27日 (木)

「てっかんビール」

てっかんビールって、何だか分かりますか?
  私の子供の時分、母親は水道水のことを鉄管ビールと言っていたのです。ネットで検索してみるとすくなくとも昭和三十年代は全国規模の言葉でした。現在は死語ですけれどもね。
 さて、私の生まれ育った北海道の水道はかなり太めで、コップに水を注ぐとかなりの勢いであわ立ちます。なるほど炭酸に似ていなくもないのです。四十年ほど前、ジュースなどという高価なものはお盆とお正月くらいにしか飲めませんでした。今だから分かるのですが、お母さん方は、おそらく旦那たちに今日は鉄管ビールでがまんして、などと言っていたのではないでしょうか。
 さて、父は肥料づくりの会社から派遣されて、飲料水の会社員となり、関東に一家は越してきました。工場の水は数千メートルの地下から汲み上げていたそうで、その水を濾過する濾紙を見せてくれたことがあります。これがお盆くらいの大きさで一ミリ以上もある紙でした。現代では、もう少し手の込んだ濾過をしているんでしょうか。
 なぜなら、今は都会の水道水を飲むのにはかなり勇気がいりますよね。一番如実に物語っているのが、乳酸菌飲料のカ○○○です。あれって昔は水道水で割って飲んでいたんです。それなりにおいしかったんですけど、いつのまにか登場したカ○○○ウォーターの別物のようなうまさには驚きました。それほど、水道水の水の味が変わってしまっていたんでしょう。さらには、ペットボトルのお茶を飲むのが当たり前の世の中です。自分の子は、水道の水は飲みません。かくいう私もスーパーでもらえる水を品評するのが趣味だったりします。近隣のスーパー四店のボトルを持っています。飲めるものから、アルカリ水、弱酸性水などさまざまです。妻は、コーヒーを入れて、ああだこうだと楽しんでいます。私はというとたまにうどんをこねてみたりします。そんな時、子供の頃の水っておいしかったんだな、と思ったりします。そして、鉄管ビールという言葉も思い出します。(おわり)

2008年11月14日 (金)

写楽への夢・写楽の見た夢

「写楽への夢・写楽の見た夢」

 写楽への夢から写楽「大谷鬼次の江戸兵衛」を模写している。懐のあたりから両手がまさに出ようとしている絵である。本物を提示すれば、見たことがある人はたくさんいるはずである。私の模写の画像を眺めてほしい。配色は変えてある。
 さて、模写はさほど難しいものではない。平面から平面であるから、写したい作品と写す紙のそれぞれに縦線・横線、斜線などひいてそれをめやすにすれば、容易に模写することはできる。地図を拡大する要領である。しかし、今回このような安易な方法はとらず、縦横の比も違う紙にいきなり木炭でデッサンした。うまくいくかどうか、ハラハラしながら描くのが面白いのだ。用紙には、下塗りはしてあるので、その色との不協和音も面白い。画面の中で戦い、せめぎあいが起こるのだ。もともと絵ってそうなんじゃないか。ましてやオリジナルともなれば。
 写楽の作品の背景は銀色のようなねずみ色である。ウンモという鉱物のてかりである。私はあえて、これを赤系統の色にしてみた。殺気だったようすを雰囲気としたいからである。かなりうまくいったつもりだったが、最後服の模様を入れて、すっかりダメになった。三本線の模様なのだが、これが難しい。となりの線とつかずはなれずに三本ひかねばならない。しかも生きた線でとなると私の手に負えない。線の両端もうまく収まらない筆の縦具合で端がうまくかけないのである。立てて描くのは、何も見ないで描いているということなんだろう。要するに私は下手なのである。ううむ。
 専門化家によれば、かような達人の写楽もヘタなのだそうである。この絵についていえば手の形が変だし、顔が大きすぎるというのである。大首絵で世に出たのもデッサンがなってないからとの証拠に、全身像のぎこちなさを指摘する人は多い。
 しかし、要するに単にうまい絵描きではなく、すごい絵描きだったということではないか。対象の内面までも描きあらわす画家はそうそういるものではない。それにちょっと絵を描く人間ならば、絵のよしあしと写真のようなデッサンとはそれほど関係がないということは常識なのである。一般的に達人は、容易に1本の線が引けるところをあえてニ本にしてみたり、なぜこんな線があるのか不思議だという線を引いたりするものなのだ。雪舟しかり。若沖しかり。パターンで描かずに、本質に迫ったと言うことだと思う。
 写楽のこの絵は、殺気だった男を瞬間的にとらえている。私はこういう絵を生涯一枚でも描きたいものだと思うのである。

                        ※

 写楽は謎の人物である。その写楽の見た夢は、一体何だったのだろうか。一説によると写楽は、地方の役者であったという説がある。
 そこで、私の妄想がはじまる。
 地方から、江戸に出たというのは、志があったのであろう。絵の才能を見る限り役者の様子をよく捕らえている。絵を描くというよりも、自分の芸の肥やしにするためにこうした絵を芝居を見ながら描きためて、歌舞伎を研究していたのではないか。役作りを構想しながら描いているというのであれば、役者の内面にせまるという行為もそれなりの自然な必然性がある。
 それが、誰かの耳に入り、見とめられるとするとどうだろう。本人の望んでいた形ではないのだが絵師として世に出たというのも面白くはないだろうか。 
 話は飛躍するのだが、将棋のプロの技量は紙一重だという。序盤から二十数手のどんな局面をみても、これはいつ、AプロとBプロが対決した局面で、感想戦ではこちらの有利ということであった。などと一にらみで言えるプロがいるらしい。ところが、それが勝敗につながるかというと単純ではないところに、将棋の奥深さがある。役作りもそうではないだろうか。人まねはできても、それと自分の役作りとは別次元のものであろう。
 人まねの役作りは達人の写楽が、自分は二流の役者であった。ところが、自分が手慰みにしていた役者絵から、絵描きとしての自分の自分が現れれたのだとしたならば。
 世に、真絵描きになりたいと思う人間は多いが、自分で望んでいなくても絵描きになった人もいるだろう。そんな姿を写楽にかぶせる私の妄想なのである。

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2008年11月11日 (火)

「彫り物をした島」

 最近気になっている画家は、江戸時代末期の浮世絵師国芳(くによし)だ。
 迫力のある武者絵で、人気を得て画壇に登場したとのことだ。絵の中で刺青をした人物をかっこよく描いたために、刺青が流行るという社会現象を巻き起こしたという。人気のすさまじさが分かるだろう。とはいえ、その成功も晩性で、若い頃は不遇であったという。それゆえに弟子を大切にしたという。一門の隆盛は人物の人情味を十分に物語っているだろう。
 人物画は、群集を描かせても素晴らしい。エネルギッシュな街、祭りの雰囲気などを発散させる。また、子供を描かせても生き生きとした生命感あふれる絵を描ける。
 風景画はどうだろうか。これまたすばらしい。緊張感のある線にたいして、雲や煙のやわらかな線との対比が美しいし、雲は幾重にも重なっているのがその色や形の重なり具合が良い。雲とは違うがある絵では曲線の重なりで「せんこうの煙」を現した。この辺も私にはできない芸当だ。
 また、風景画に自己主張を持ちこみ、単なる名所旧跡の絵としない場合もある。
例えば、有名な松が題名の絵は、弁当のパセリのように松を描き、主題になんと海辺のフナムシやカニをもってくるという強情な作品もある。また、大きな橋の下をゆく舟には、上からまかれた札がまってくる。川面にはゴミが浮いていたりするという按配である。ニュースのドキュメンタリーのようでもある。まるで、現代の絵描きが自己表現をするように国芳は、自己主張し、それを二十文程度の値段で売ったのだろう。
 よいっこしのゼニは持たず、版元のいうことをきかずに、したいように生きる。文字どおり実力があったからできる生きざまだ。
 気になる絵、ぐっとくる絵がたくさんある。今、生きていたとしてもそうとうな画家だと思う。
 さて、今日のしめくくりの話題。「相州江ノ島図」という作品がある。いくつかの本を読んでみると、誉め言葉として従来の手法としての線ではなく色面をもちいた生き物のような島とか解説している。確かに異様な一個の生命体のような島の姿だ。
 であるが、私は単純にこれは、刺青好きの国芳が描いた刺青をした島なのだと思う。私はこの絵にぐっときますが、それだけのことですよ。同意見の解説に、まだめぐり合えない。(おわり)

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2008年11月10日 (月)

「夜盗」との対決

 夜盗虫と書いて『ヨトウムシ』と読みます。野菜を食べてしまう害虫で、簡単に云えば蛾の幼虫です。
 名前の由来は夜盗む虫であるとのこと。昼間は土の中にいてかくれているのですが、夜出てきて葉の部分を食べてしまうというのです。土の中にいるのですから、通常の農薬は効きにくいわけです。それに、人間にとってみると姿のない敵が大切にしている畑を荒らしてしまうわけですね。大発生すると葉を食べる音が聞こえるといいます。カイコのような話です。
 ま、話はそれますが、夜を盗むといえば、人間でしょうな。夜を惜しんで遊び回っているのは人間だけではないかと思います。ましてや畑を自分のものだと決めつけているのも人間だけのような気がします。
 さて、今日の文章の目玉はこのヨトウムシとトウガラシについてのお話です。ヨトウムシはなんとトウガラシの葉も実も食べてしまうのです。すさまじい食欲です。
実は青い段階で外側をかじるので、七味や鷹の爪にできない実が種を見せながら赤くなっていくのは、何とも腹立たしい眺めです。
 ヨトウムシは、人間が枝を揺らせばまるまって下に落ちます。ま、夜のねぐらに帰るわけですし、ムシにとっては痛くも痒くもないわけです。毛虫と違って人間には害がないわけでそうしたことが、彼らを繁殖させるスキを作っているわけです。気温が二十度を切る頃になれば、サナギの状態で冬を越すそうです。対決するとなると農薬のお世話にならなければなりません。かなりやっかいです。私は中性洗剤を水に溶いて、それをスプレーしてみましたが、あまり効果はありませんでした。 

2008年11月 6日 (木)

裸婦習作

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2008年10月27日 (月)

春菊の秘密

 皆様にお尋ねします。「春菊」って何ですか。そうです。あの鍋物に入れる青物ですよね。あれっておいしいですか? おいしいと感じたことがありますか? 

 私はあんなものがなんで鍋に入っているのが不思議に思っていたんです。ところが、自前の畑に種まきしてみたんです。もちろん無農薬。で、ときどき先の方をつまんでさっとゆでるのです。からしマヨネーズなんかで食べるのです。その香りのよいこと。味にクセのないこと。まったく別物です。スーパーで売っているやつとはまったく別物ですぞ。もちろん鍋物なんかに入れてもおいしいんです。

 さんざん楽しんでから春がやってきます。白い菊の花が咲きます。だからなのか。名前が春菊なのは。今頃からいいだけ楽しめます。みなさんにもおすすめ致します。

 

 

2008年10月 9日 (木)

若沖の謎、奥深さ

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 江戸時代の絵師伊藤若沖がずっと気になっている。
 一通り、手に入る資料に目を通し、京都、大阪にも数度出向いたのは2000年だから八年も前になる。
 まず若沖の絵は気になる。薄い絵の具で一発で決めているということが、信じられない。まねごとでやってみるが、どうにもならない部分が一杯できて、いつまでも完成しない。これはアクリルで何度も塗り重ねてやってさえ、その有様なのである。ましてや、自分で絵のモチーフを構想し、制作するとなると神技といわざるをえない。
 また、画面の中になぞが多いというか、理解しきれないことも多いのだ。
 単に、自分が足りないことが多いだけなんだろう。 
 さて、若沖と妹のことが気になる。
 若沖は晩年妹とその子と三人で仲良く暮らしていたという。夫婦のようにも見えたという。父親は彼の二十台に死んでいるのだから、妹も相当の年である
のに子供とはどういうことか。
 妹は家系図にも名前がないのである。
 また、若沖は生涯妻を持たず、子もなさなかったこと。それから、雄の鳳凰をなまめかしく描いたなどのことから、精神的にも男色の傾向があったという説がある。それをうのみにしたとすると、妹とのこうした関係は何なのか。どの本にも書いていないことなのだ。
 こんなことを夢想していくうちに情景が膨らんで、中編を書いたことがある。結局はボツであった。
 その後、黒川創という人の「若沖の目」という小説を読んで、謎のかなりの部分がはれたのだが、妹のことは皆目分からない。彼の絵のことについても謎は深まるばかりである。
 

2008年10月 6日 (月)

荒川水系最後の冠水橋

  五年ほど前まで、家の近くに荒川水系最後の冠水橋『久下橋(くげばし)』があった。冠水橋とは、大雨で水没したとき、橋桁は残してわざと流れて身を守る橋のことである。
 雨台風が列島を襲うと、この橋は簡単に通行止めになった。一週間ほどして近くを通りかかっても通行止めのままだったりする。
 橋を見に行ったときのことである。夕暮れ時、長堤は散歩する人たちでにぎわう。
 「不通」は車だけで、自転車や歩行者はもう大丈夫ということであった。
なんだ、そうなのか、とおもうと歩きたくなった。普段、橋を渡る途中で、立ち止まりたくても、景色を眺めることができない。通行止めも、いいことがあるではないか。
 木の上をアスファルトで固めたような路面は意外とうねうねしている。熱にとろけるのだろう。逆に、冬の朝は霜がついて、真っ白になっていることもある。
 橋の中程までいくと水の音が気持ちいい。上流からは、さらさらと流れてくる。川床にならんだ玉石の起伏が下ろし金のようになっているので、流れはその一つひとつにひっかかって、魚鱗のようになる。ちょうど沈む陽がきらきらと当たっていたりする。そんな光景につい見とれてしまう。
 下流に面する方は、急に深くなっているのか、橋脚の後ろでいくつも渦をまき、その渦が干渉しあう。とっぷん、とっぷん、という面白い音を立てている。
いろいろ眺めたり聞いたり、風に当たりながら、この場でお茶でものむのもいいなあ、と思った。
 帰ろうと振り向くと、橋と自分の影が河原のずっと先に見える。 夕日が橋に垂直に当たっていないので、橋に当てた三角定規を地面に倒したように影が出来ている。橋脚の長い足があって、その先っぽの方に自分の影がある。影は足についているものと思いこんでいたが、そうでもないらしい。
手を振ってみると自分の影だ。おのれの足下にも足の影の部分だけあるが、それとはずっと離れたところに胴体から上の自分の影がある。自分が橋の中央から歩いて戻り、橋のたもとのところにくれば、影の胴体と足首とはつながり、再び一つにもどることができる。そんな考えが何となく私には面白い。いつのまに、足と胴体とが離ればなれになっていたのだろう。
 橋のたもとには、老人が四五人、長いレンズを構えてシャッターチャンスを待っていた。写真談義をしている。その一人が、こんなことを言ったのが聞き取れた。
「昨日は、夕暮れとどんぴしゃで親子連れがきたんだ。それで、親が夕日を指しているところがとれた。長くやっていると運がいいこともある」

2008年10月 5日 (日)

裸婦

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2008年10月 4日 (土)

 着物と油絵

 本日は、別の大先輩のことを書きます。

 呉服屋の旦那様です。

 あるとき、売り物の布地に油絵具をつけてしまったとのこと。

 それで、その後は水彩一筋になったということです。

 自分ならばどうなんだろうと思うのです。見切りの付け方が

潔すぎる。

 油絵を選んだとすると……。

 ここで、私は池大雅を思い出すのです。扇子を売っていた

大雅は、売り物の扇子を橋のたもとから投げ捨てて、本格的

な絵の道に入ったとのこと。

 ま、かっこよすぎるかな。あこがれではあります。

 現実は、先輩のような生き方も、かっこいいと思うのです。

 どちらも私の心に残ります。

2008年10月 2日 (木)

今からでも遅くない

  私が絵画教室に通い始めた頃、還暦を過ぎた男の先輩の一人に聞いたことです。先輩は、毎日の通勤電車から、その描きたい場所を毎日眺め続けていました。路線は、東京上野への高崎線。赤羽駅を過ぎ、あともう二駅で終着駅の上野という時、不意に前方の視野がひらけるのです。ブルートレインがずらりと横にならんだ姿が突然目の前に現れます。尾久駅に集合した紺色の車両たちは、遠くの旅からもどってきたばかりなのでしょうか。あるいはまた、今旅立つ車両もあるのでしょうか。特に、冬の時期、朝靄の中の光景は、一番多く様々なことを語りかけてくれます。
 通勤途中の先輩は、毎朝、この光景を眺めるたびに、「ああ、旅に行きたいな」と思うと同時に、絵に描いてみたい、おれは本当は絵描きになりたかったんだ、と思ったのでした。こうしてのどから手が出るほど描きたいと思いながら、先輩は電車を降りることはなかったといいます。やがて、海外の勤務となり、中近東の砂漠で仕事をしている時も、その光景をときどき思い出したといいます。
 私がその先輩に感じ入るのは、退職後、絵を本格的に描き始めたことです。
 もちろん、尾久の駅を降りてみました。そして、数百メートルほど戻るかたちで、踏切までたどり着き、そこをわたると、ただただ列車の群れと向き合ったのです。それが絵を描き始めるきっかけになりました。おしいかなその場所は朝夕は開かずの踏切状態なので
写真に納めたものから絵を起こしたのですが。
 やがて、先輩は、数々の展覧会でも入賞するほどの腕前になりました。 

2008年9月30日 (火)

『お好み焼き屋美術館 』

  「先日、床屋とお好み焼き屋と喫茶店に行った」
 と書きだせば、読まれる方は、おおむね冒頭で読み捨てるのではないか。いま少し読み進まれよ。
 お好み焼き屋と言っても、美術館となっているのである。喫茶店と云っても名前は「美術館」である。その両方とも、絵は、司馬遼太郎の「街道をいく」の挿絵画家だった須田剋太(すだこくた)の描いたものである。場所は東大阪、近鉄奈良線の沿線駅「八戸ノ里」(やえのさと)から歩いて、十五分ほどの場所に位置している。
 さて、この近所には司馬遼太郎記念館がある。この記念館は、司馬の自宅の敷地内に立っている。庭の小径を進むと、司馬の書斎があらわれ、さらに庭を眺めて歩いていくと、記念館が現れる。建物の陽の当たる側に風の通りやすい道があり、ガラス張りの壁を通して隣接した眺めを愉しむことができる。建物の中には、壁一面に司馬の蔵書や出版物が十数メートルの高さで積み上げられている。見上げるほどの壁全てが本棚なのだ。一冊の本を書くのに、家が建つほどの金を投資したという司馬ならではの演出であろう。
 さて、美術館の方に話を戻そう。つまり、この二つの店(お好み焼き屋と喫茶店)は、司馬のきもいりで出来た美術館なのである。お好み焼き屋の主人である青年は顔見知りの司馬遼太郎に須田画伯の絵が欲しいと持ちかけ、それが画伯と司馬の納得を得て実現したもののだというのだ。当初、須田画伯自身の意志により絵は無償で提供されたいうから、驚きに値する。まさに心の通い合いから生まれた美術館なのである。
 さて、これを書いている私はというと、埼玉の県北に住んでいる。自分でいうのも何だが、絵の好きなただの中年の男である。須田画伯は、私の絵の師匠の住む吹上町(ふきあげまち現鴻巣市)の出身なのだそうである。それどころか、師匠の家とは生家は隣同士なのである。生前、私の師匠は、須田画伯にも絵のことで多いに方向付けをしてもらったという。画伯に関する逸話は、師匠の口からよく聞いていたのである。というわけで、私は直接面識はないものの、須田画伯は近所出身の有名人ということで、ずっと気になる存在だったのだ。
 須田画伯は、美大に四度落ち、家を出た。若い頃は、食うや食わずの生活だったらしく、浦和に住んでいたところは沼の周りでヘビを取り、焼いて食べたりしていたという。一時期、その辺ではヘビがいなくなったという話しまである。
 道を歩いていれば、アスファルトの肌が絵の参考になると感じると、つるはしでそれをはがそうとして、留置場に入れられたこともあるという。
 帝展に三度も特選となるほどの力を持ちながら、世渡りは下手で、故郷を捨てて関西に移り住んだらしい。
 須田画伯には、絵を描くことだけがすべてであった。名誉も金も望まないことを、生涯自らの誇りとしていたようだ。
 奈良の寺を気ままに描くことに明け暮れた。朝早くから日の暮れるまで、描き続ける画伯の姿にあきれて、無償で泊まるように勧めてくれた寺もいくつかあったというほどだから、生き方がすさまじい。その一つに東大寺観音院がある。数年、土蔵に住まわせてくれたそうである。
 一つの道を求め、極める人というのは、こういうものかと、私は感心するのだが、読者はどうだろうか。私には、そのようにして自分の人生を投じるほどの度胸はない。
 さて、須田画伯は、埼玉出身なのに、埼玉県自体にはほとんど絵がない。その絵の大部分は、関西にある。画伯の人生の後半は関西で生活していたのだからいたしかたないのだろうが……。
 須田画伯が亡くなってから、埼玉の地元でも人気がさらに高まり、何度となく回顧展がひらかれている。そんな絵をたびたび見るたびに、私は関西に行きたくなっていた。その気持ちは飽和点に達していたと言っていい。私が、関西に赴いたのは、この八月の下旬だった。
 さて、このお好み焼き屋さんは、須田画伯の代表的なコレクターなのだそうだ。
 お好み焼き屋は、夕方からだそうで、併設されている喫茶店の壁にも絵があるので、開店まで、近所の床屋で散髪して、時刻を待つことにした。
 私が店内に入っていくと、目をまあるくしたご婦人が二人いた。「何者だろう?」
という表情である。お客と確認してから、私を席に座らせた。どうやら、客が珍しいという感じの店なのか、あるいは、なじみの客しかこない店なのかもしれない。
 店内には演歌が流れ始めた。なんとなくほほえましい。関西の店は、どこもこんな風なのだろうか。(これは、軽口で書いてます。東大阪の人、すいません)
 私が、そこのお好み焼き屋さんと喫茶店に須田の絵を見に来たと説明すると、整髪ばさみを動かす婦人は司馬の話をしてくれた。司馬に関する催しにはたくさん出向いているらしく、須田画伯に対しても、一通りの知識があるらしい。
「うちの床屋の隣の隣に、マッサージ屋さんがありますやろ?」
「ええ、正直に言うと時間までどちらでヒマを潰そうかと、迷いました」
 と私が言うと、婦人は、散髪しながら笑い声でこう説明してくれた。
「そこに、生前司馬さんはよく奥さんといらっしゃいました」
「はあ。なるほど」
「ご夫婦で、いつもご一緒でした」
「仲が良かったんですね」
「二人とも新聞社につとめていた時に知り合ったとかで」
「なるほど」
「奥さんは、日曜版に今でもエッセイを載せてはります」
  生前は、ご夫婦でその辺を散歩していたときくと、何か身近な存在に思えてくるから不思議である。
 こんな話を私は聞くのがなにより楽しみなのだ。
 だから、その土地その土地の風呂屋や、床屋に顔を出してみることにしている。

 頭がさっぱりとした私は、お好み焼き屋の絵を見、それから喫茶『美術館』に入った。
 お店の方に、埼玉から来たことを告げる。
「埼玉県の北部に吹上町というところがありまして」
 それを聞いて、相手の青年は、だいたいのことを理解したようである。
「草美会(絵画の会)のものです」
「分かりました。どうぞ」
 須田画伯は、草美会の創立者の一人なのである。
 ちなみに相手は、この美術館をつくった大島氏の息子さんであった。経営者は、代がわりしたのだ。美術館を創立した大島氏は、北海道の美術館に単身で移り住んでいるとのこと。その大島氏の奥さんは今日は見えないらしい。これは、少し残念であった。というのも、私は奥さんと面識はないものの、美しい容貌を絵で知っているからである。私の師匠が奥さんの絵を描いていたのを、アトリエで目にしたことがあったのである。
 マスターである息子さんと、あれやこれやと短いやりとりの後、私は席についた。
 飛騨製の格調高いテーブルとイス、そしてひろびろとした室内である。壁面には、須田の抽象画時代の代表作がずらりと並ぶ。
  蛇足ながら、トイレの中にも、須田の絵は飾られている。女性の客がいないのを幸いに、私は両方のトイレの絵も鑑賞させてもらったりした。
 益子焼きのカップにいれられたコーヒーを飲みながら、私は至福の時を過ごした。 (了)

 さて、興味のある方は、以下のサイト並びに本をを紹介したい。

 司馬遼太郎記念館のHP      
http://www.shibazaidan.or.jp/

2008年9月28日 (日)

モデルa

Modela

2008年9月26日 (金)

クロッキー 003

Dessanh16

2008年9月24日 (水)

クロッキー 001

Dessanh15

2008年9月23日 (火)

ヌードモデルを描く

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  しめきった公民館の中、かなり広めの多目的室は、しばらく前から締め切られている。窓のブラインドは下ろされ、天井の蛍光灯は灯されることはない。空調が少しずつ効き始めている。部屋の真ん中には畳二枚分ほどの広さで、高さ10センチほどの台がおかれ、毛布や布きれ、それからイスが用意されている。
 部屋の周囲はそれを取り囲むようにイスが置かれていて、オーケストラの演奏がそのうち開かれるようなあんばいだ。ところがそのいすの一つ一つには筆や木炭をてにした人々がこれから、座り始めるのである。
 私は、費用を支払い、クジを引いてその場所を確保します。そして、まず画面を載せたイーゼルをセットし、妙にそわそわした落ち着かない気持ちで、木炭や練りけし、コンテの点検をしはじめる。鉛筆をナイフで削ってみたりする。
 するうち、部屋の中は女の園とでもいうべき様相を示しはじめている。何せ、今時の公民館活動のほとんどは熟年の女性の独壇場なわけで、絵の分野もそうなのだ。
女ごが島の中で、私はこれから登場する一人の女性を待っているのです。
 つまり、男は数えるばかり、ぽつんがぽつんといるわけですから、私にはかなり勇気がいることなのですよ。自意識過剰になっています。これはれっきとした学術の研究なのですぞ、と言い訳につい言いたくなります。経験のすくない頃は、こんなことばかり考えてましたよ。絵の道具を点検していなければ、男は、何を言われるか分かりませんからね。電車でつり革に捕まらないと痴漢に間違われるのと同じような気分です。(笑)
 会の中心の方々があらわれ、本日の方針を相談します。午前中は、何分ごとのポーズをして間の休憩は何分、昼食休憩の時間帯は? 午後はどういう固定ポーズにしようか、といった具合です。するうちモデルさんとおぼしき女性が現れ、かいつまんだ要点をつたえると、控え室の方にその女性は案内されてドアの向こうで用意をしている様子です。
 するうち、モデルさんは現れます。頭からかぶった余裕のあるワンピースのようなものだけを1枚まとっただけです。何か雰囲気が違うなと思いながらそれとなく観察しますと
さっきまでロングだった髪を後ろにまとめているんですね。手にはキッチンタイマーを持っています。それから休憩時間に読む文庫本を持っていたりします。
 私の持っていた本によれば、モデルさんがお脱ぎになるとこまで、じろじろ見るのは、人の道に反しているとのことですので、また、鉛筆や木炭の点検をするのです。
 とまあ、デッサン会の始まる様子を実況する感じで文章にすると、だいたいこんな感じです。
                                ※

 忘れもしないこと。大げさにいうと、生まれて初めてのデッサン会がスタートしたときのことです。
 まだ服を1枚まとったモデルさんは、スックとお立ちになり、私を正面から見つめたのです。どぎまぎしましたよ。そして何を言われたと思います?  ゆびを指して、
「外から見えます」
 三階だったのですが、偶然窓が開いていて、カーテンがわずかに揺れていたのです
ね。
  びっくりしました。まだ、そんなつまらないことを昨日のように覚えています。
 そして、窓をしめカーテンを整えると、いきなりお脱ぎになりました。
 正面を向いて、あられもない姿ながら、それを感じさせずに堂々としてお立ちになるその姿にまず感動しました。今でもこのとき20分で描き上げたそのデッサンを眺めると、あのときの緊張感がよみがえってきます。この針を刺すような緊張感がいいのです。
 そうですね、絵を描いているときは無我夢中です。つくづく絵を描くために生まれてきたのだなと思う時間です。
 ですから下世話なことは考えなく、ただ夢中に手を動かし、美しいなと思いながら、絵を描いています。
 畳2枚ほどの大きさのステージにビールのケースを置きます。そして、それに毛布を
かけます。ケースに腰を下ろしたポーズでもいいし、坐って物思いにふけるのでもいい。(地方都市のデッサン会の雰囲気が出ていませんか?)
午前中は、モデルさんの気持ちの向くままにポーズの変化は任せていくのが普通です。

                                        ※

 美術モデルさんはどんな方ですって? 肝心なことを言い忘れましたね。
  専業の方もいれば、アルバイトの人がいます。何をされてる人ですって?
 フラメンコダンサーの方や、演劇をなさっている方、ベリーダンスを仕事にしている方、それから、モデルをしているうちに画家の妻になってしまった人。いろいろです。
 昼食はお弁当をとって、みんなで食事をするのですけれども、モデルさんとお寿司を食べるのもおつなものですよ。
 モデルさんは髪の長い方が多いようです。それは、ポーズにより、アップした髪を下ろさなければならないこともあるわけで、そういう職業意識からかもしれません。
 お脱ぎになることも大変だけれども、じっとしていることが大変なんだろうと思います。午後からは固定ポーズになってもう少し長い間、じっとしているわけですよ。視線も立っている場所も変えないのです。これがずれてしまうと、絵にならない。
 顔が難しいので、ヌードとはいえ顔を中心に見てしまうわけですが、固定ポーズを数回繰り返しているうちにその目が閉じそうになり、また開いて、また閉じそうになり、という時があります。昼刻。ものうげな瞬間です。そこまでがんばっているのを見ると、こちらも「あと少しだからがんばって!」なんて声をかけたくなるわけですね。
 デッサンって対話だと思うのです。
 これが磨かれると、風景とも対話できます。さて……
 デッサン会ですから、音楽もなし、筆だけが動物のように動いているわけで、奇妙といえば奇妙な光景でしょうか。
  すべての本日の予定が終了して、会の中心の先生は、モデルさんを乗せながら、駅まで送っていきます。
 怖いのはモデルが帰ったあとのことです。今まで黙って絵を描いていた人生経験豊かな女性たちは、モデルについてあれこれと評価し始めるのです。女どうしだから、容赦はない。今日のモデルさんは描きやすかった。そうお? 今日は描きにくかったわ。この間のモデルさんの方が良かったわ、などと話すわけですね。

                                    ※

 秋もたけなわの時期にヌードデッサンのことを持ち出すのも何かと思います。
 デッサンは一年中可能なわけですが、モデルさんは裸なわけで、いざとなれば暖房があるとはいえやはり夏が旬といえそうですから。
 さて、こんな話題を持ち出すのも私的に、来週はデッサン会に参加するものですから今から気持ちが高揚しているわけですね。
 絵が趣味ではない方には興味のあることかと思いますので、デッサン会のアウトラインを蘊蓄(うんちく)しようというのが本文のねらいです。
 まず、参加費用のこと。持参する道具の費用は脇に置いておくとします。
 東京からしかるべく筋をとおして例えば埼玉にモデルさんを呼ぶとします。これは交通費をあわせるとだいたい相場は1日の日程(9時頃から午後4時くらいまでとして)で3万円くらいだと思います。これ以外に会場費が必要ですから、十人も参加者がいれば片手(五千円)くらいで会を催すことができます。
 また、都内でデッサン会に参加するとしましょう。これは指導の講師がいるとしますと1日の日程で8000円程度が参加費用と考えてよいと思います。
 あなたも気軽に参加してみませんか?  (おわり)

2008年9月17日 (水)

展覧会「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」

 六本木の国立新美術館でピカソの展覧会「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」が開かれる。これは、パリのピカソ美術館が改築されることに伴い、その期間を利用しての美術展ということになる。これは、個人的にもお勧めしたい。なぜなら、私は数年前ピカソ美術館に行ったことがあるからだ。何より、ピカソの全体像をつかむのに絶好の機会なのではないだろうかと思うのである。
 ピカソは巨人で、少なくとも象のように大きい。(笑)
 ええと、幾人かの目の不自由な人が象をさわって、あれこれと感想を言い合うのだがどれも共通したものではないということわざがありましたよね。ピカソを語り合うとあながちそんなことになりがちなのです。例えばですね、その辺の図書館にいきますとピカソの画集があります。辞書のように分厚いものも見かけます。ところが、決まってある時期のピカソのものだったりするので、本ごとに別人の作品を
眺めているような錯覚さえおこしかねないのです。
 ところが、ピカソ美術館の作品を眺めると、ピカソの一生を追体験するような印象なのです。作風の変遷もそれなりに分かるような流れもあります。何より、一つ一つの作品は粒ぞろいなのです。なぜかって?
 ピカソが死んだ時、遺族は膨大な作品をくじ引きで山分けしました。それで、フランス政府にも税金の代わりに幾分かの作品を納めたのですね。その作品をまるごと大きな館に陳列したのがピカソ美術館なわけです。それで、その作品群というのが、あまりものとか、おすそわけとか、そういうものではないです。ピカソ自身が晩年まで自分の手元に置いておいたものなのですよ。
 画家は、自分の気になる作品はいつまでも自分の手元に置いておくものなのです。
そして、時々それを眺めるわけです。これは姿見という鏡を覗くのにもにた心情があるのです。ダビンチが死ぬまで手放さなかったのはモナリザです。おおげさにいえば、ピカソの「モナリザ」が、かの作品群なんです。
 青の時代の自画像もありました。おすすめです。ぜひご鑑賞ください。
 
                ※
  
 以下、数年前ピカソ美術館に行ったときの文章を載せておきます。 
  宿泊していたホテルからだと地下鉄で4つ先にあるこの美術館を、私はそれほど期待してはいなかった。
 というのも、正直な話ピカソ自体に捉えがたい印象があったからだ。
 例えばその辺にあるピカソの画集を眺めてみるとする。その画集ごとに印象がことごとく違うのである。aという画集にはaというピカソがいて、bという画集にはbというピカソがいる。これが、はたして同一人物の絵なのだろうか。そんな印象すら受けてしまう。キャッチフレーズのように良くいわれるところの「絵画制作において破壊と創造をした人」というのが、正直よく判らなかった。
 とはいっても、他に行くところがないので、電車を降りてから少し路地を歩いて、ようやくそれとおぼしき建物の前にたどり着いた。小さな公園のとなりにひっそりと小さな建物。
 ガイドブックを片手にまごついていると、散歩をしていた老人が、ピカソ美術館に来たのならここだよ。でも開館まであと30分だ、と教えてくれた。
 その建物がピカソの美術館であることは垂れ幕のようなものがあるので認識できるのだが、それがなければうっかり通り過ぎてしまうところだ。会館まであと30分だというので閉ざされた門の前で一息つき、暇つぶしにスケッチを描いた。前の道が緩やかな傾斜になっているようで、どこからかの掃除の水が車道の隅をつたってこちらに流れてくる。
 門がひらくとおもったよりも豪華な建物が現れた。やわらかな光の降り注ぐ石畳の中庭が広い。『塩の館』と呼ばれた貴族の館を改装したとのこと。しっとりとしたとても落ち着いた雰囲気だ。
  上階に上がると日本でも見た青の時代の絵が数枚、最初の部屋に掛かってい
た。確かにうまい。そして次の部屋に行くと、鳥のスケッチがあった。いくつものバリエーションで紙面が埋め尽くされている。1つ2つのアイデアなら自分にもできそうだが、これが十を越えるとなると、常人には逆立ちしたって出てこない。彼はそうしたことを極く普通にやってのけたようだ。すくなくとも、そんな風に見える。
 最初の妻のオルガの肖像画。
 パステルカラー調なのに、離れてみると力強い絵だ。
 ほとんどかわらぬ構図の写真がある。実物の彼女はえらがはっていて、きつい
目をしている。この辺は顔のむきを変えて頬に陰をつけることで、ほっそりとさせている。口元もやわらかい。胸元の黒のふちどりは顔との循環をもくろんでいる。ソファーの外郭線から右手も頭部への視線の誘導なのだろう。
  ・・・・・・・・・。
 このようにして絵を見ていくうちに、私はピカソに関して考えを改めた。
 それは、彼の絵の変遷というものが極く自然なのだ、ということ。時代を追って眺めていくと、奇抜とも奇をてらうとも思えた画風の変化が、実は水が流れるように自然なものだったのである。例えばよく日本にあるようないわば根無し草のような制作態度の作品とは根本的に違う代物なのである。
 この美術館の作品は、ピカソの死後、その長男が税金を払う代わりに絵を収めたものを基にして立てたのだという。ふれこみによれば、本人が最後まで手放さなかった絵ばかりなので「ピカソの中のピカソ」なのだという。実際、どこかで見たことのある代表作がいくつも並んでいて、そのどれもがまったく美しい。
 例えば陶器の作品も、彼は陶器を造りたかったのではなく絵を描くために、これを造ったのだな、と自然に思えた。アフリカ美術の次は、ギリシャ文化にインスピレーションを求めたのだろう。己のルーツを探っただけなのだろう。
 少なくともピカソの作品が身近に感じられ、とても親しみを感じた。

 路地を歩くと、魚屋や八百屋が並んでいて、眺めるだけでも面白い。
  この美術館からポンピドーセンターまではたかだか数百メートルの道のりだった。パイプや鉄骨がむき出しになった奇妙な建物。その中に入ろうとすると、奇妙な日本語で話しかけてくる男がいた。
「日本のおにいさん 大好き こちらに来てください」
 しつこくつきまとう。
  スケッチブックをもっているので、似顔絵描きらしい。ちょっとしたイタズラを思いついた。私は先手を打つ気分で自分のクロッキー帳を開くと、その男の顔をすばやく写し取った。まいったなあ、という顔は万国共通なのだろうか。それとなく相手のそんな気持ちが私に伝わってきた。(おわり)

2008年9月15日 (月)

『二つの墓、二匹の龍』

 『二つの墓、二匹の龍』  ……絵師伊藤若沖のこと

                                                    
               一

 相国寺境内にある承天閣美術館は、本堂の脇の小径先にひっそりと立つ。
 塔頭の一つであった鹿苑寺金閣。その大きめの模型(十分の一ほど)が、入ってすぐ右に折れたところにあった。その奥が、展示室になっている。
 当初、金閣を装ったとされる若冲の水墨障壁画は当時を再現する形で、展示されている。
 一見無造作とも思える松の枝。若冲が描くと鶴もその枝にならいこうべを低くたれ、くちばしは天を射る。葡萄の図。月夜の芭蕉の葉。そして、彼の表芸である鶏。
 極めつけは丸と線だけの竹だ。言葉では、うまく表現できない。炎のように舞い上がる線で立つ。ため息がもれてしまう。
 その障壁画(一部)の回りを、絵を眺めながら、拝観者は歩くことになる。
 図録を求めるとき、若冲のことを訊いてみた。
「この他に、資料はありませんか? 若冲のことを追っているのです」
「はあ」老人は、言い淀むと、いったん奥に入った。
 並んで、初老の婦人が顔を出した。
「その図録に若冲の説明が描いてありますので、それを読んでください」
 ガラス越しに幾つか質問をし、ついでに墓のことを訊いてみた。
「若冲には、二つの墓がありますよね。ここと、深草の石峰寺に」
「へえ、初めて聞きましたなあ、そないなことは。うちの(若冲の)墓は……」
 婦人は、パンフレットの図を指でさして、墓地の位置を教えてくれた。 
  墓地を入ってすぐのところに、若冲の墓があった。
 左に「藤原定家」、中央に「足利義政」そして、右になんと「伊藤若冲」である。『斗米庵若沖(ここではさんずい)居士墓』と記されていた。
 資料を読むと生前の墓とある。これは、いったんは永代供養のとりきめを結んだ証であろう。絵画寄進の功績を評価されてのものと思われる。
  法会の折りに掲げられる「動植彩絵」三十幅と釈迦三尊図を合わせた数も、教典に由来をもっているそうだ。当時も京都中で大評判になったという。釈迦三尊が、方丈中の間の北側に掛けられると、それを真ん中に、「動植彩絵」十五幅ごとに対称のかたちで並んだと記録にある。
  この絵は、その後、相国寺自体をも救うことになる。
 天明の大火は、火の回りが遅かったため建物内の宝物は難を逃れたそうだが、法堂(無畏堂)と勅使門だけを残し、すべては焼け落ちた。京都五山の禅宗寺院を統括し、塔頭として金閣寺、銀閣寺をもしたがえていたというこの大本山相国寺も、壊滅的な痛手を受け、じょじょに衰退していったのだ。
 開山堂という名の本堂は文化四年に御所の旧構を移し、再建。しかしながら、今なお山門は無く、法堂の前には、松の生えた幅の広い地面がまっすぐ南に伸びるのみである。
 若冲の三十幅は、歴史を下って明治二十二年に当時の京都府知事の斡旋で宮内庁に献上され、金一万という巨額の下附金を賜っている。これが寺の復興資金に役だったのではないかと考えられている。
 さて、法堂の中に入ると、天井にまるく巨大な竜が舞う。『鳴き竜』である。これがお目当ての一つだったので、荷物を置くとその場にねころんで、写してみる。陶器のタイルを敷き詰めてある床は、ひんやりと冷たい。一人で貸し切り状態だ。
 ノートを上に掲げて描くものだから、ボールペンはインクが出なくなる。ペンをときどき下を向けて、イトミミズを描くようにしてインクを呼び戻してから、だましだまし竜をなぞっていく。同じ竜でいうと別寺の探幽作『八方にらみの
竜』よりは、力づよい印象だ。光信は探幽のおじいちゃんだったと思うのでこの発言は、許されたし。
 そのうち係りの人が来て、手を叩く位置や、運慶作の本尊を説明した。『鳴き竜』についても、本に書いていない意外なことを言った。
「これは実は光信のものではないのです」
「え?」
「狩野派のものであることは間違いないのですが、この堂の再建が1602年ですからね。この時、光信の本当の竜は、剥落していたのです」
「そうなのか。すると、あそこが頭ですね」
「そう言われています」
 私が、天井のしみのような部分をゆびで指してると、男は同意した。まるの中に収まるのではなく、巨大な竜は、天井全体に浮かんでいたのだろうか。
「すると、若冲が見たのは、両方の竜ですね」
「そういうわけです」
 
                                二

  伏見稲荷の近くにある深草の石峰寺にも足をのばす。                     
 タクシーの運転手に行き先をいうと、意外だという顔つきになった。
「たぶん、だあれもいないかもしれまへん」
「はあ」
「竹林がきれいやとは思いますが。地元の人はその折々の花を楽しむようなものやからね」
「なるほど。たくさんの人で賑わうのは、今ならどこですか」
「下加茂の菖蒲やろね」
「私は偏屈だから、石を眺めたいもので」
「はあ」
 私は笑った。めあては、墓石と羅漢なのだ。『羅漢さん』の愛称で親しまれているこの小寺は、ひっそりと隠れたようにあった。
 受付のところで若冲の名をあげて、墓の位置を聞いてみた。
「その本堂の脇の道を行って、すぐのところを右にゆけばお墓です。まっすぐ進んで山門をくくれば、裏山一帯に羅漢がございます」
 私はこれ幸いとばかりに、質問を畳みかけてみた。
「あのう、格天井の花弁図というのは本堂にあるんですか?」
「あ、違います。うちではなく今は東山の伸行寺にあるんやけど、私らが行っても見せてくれません」
「見れない?」
「はい」
 これには正直落胆した。多彩な花々を直径30センチほどの円の中に168枚描いたのは、84才の時とも85才ともいわれるのだが。まぼろしになってしまった。画商をつうじてそちらに移ったという。
 若冲の妹のことについて質問すると、過去帳に基づき、その娘の名前についても教えてくれた。妹は娘とともに若冲とこの寺で余生を過ごしたのだ。ほかに若冲のことについて資料をもとめると、二種類の綴じたコピーを袋にいれてくださった。
「おいくらですか?」
「いただいてはおりません」
 礼を述べて、墓を探す。
 相国寺のそれと、寸分たがわぬ大きさと形であった。カコウ岩に彫り込まれた字も大典のものである。しかし、前を向く字づらの面はきれいに磨いてあるが、左右と背面はごつごつとしたままだ。そこだけが違う。
 ここに眠っているのだ、と思うとようやく会えた感激で胸が熱くなった。
 墓石のほかには、本人の遺言で、五尺ほどの長さに、筆の形をした砂岩の碑が右側に立つ。碑文は儒学者貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰ならびに書である。
 『無相有相の間、千奇万変、宝光百出、けっき怪光、行雲流水の如く、とらえ定めることのできないものを、筆に従って窮極を得る』とし、その至難の技をなし遂げたと、若冲の努力をたたえている。有形無形のものの心をとらえ、表現したというのだ。 
 山門の先の裏山一帯に羅漢がちりばめられていた。高齢の若冲が下絵をだし、石工に彫らせたという。羅漢とは、釈迦の説法を聞き、世人より供養される者を指す。ここでは若冲の構想により道にそって進むに従い、釈迦の誕生からさとりに至る話の流れを羅漢ともに見届けられるように組み立てられているのだ。
 どの石像も素朴な形態と単純化された彫りである。印象として、ちょうど明日香村の酒船石や猿石に通じるものがある。木漏れ陽の具合で、石の面は微妙な表情を見せる。明らかに余技ではなく、命がけの静かな気力を感じる。
 若冲の死後三十年目の天保元年(1830)には石像たちも、大地震で倒壊し明治以降はすっかり荒廃していたという。
 今のように整理し、小道をつけたのは先代の住職による。それまで、石彫は一面の草におおわれ、倒れ、あるいは折れ、あるいは埋没し、あるいは心ないものが料亭などに持ち込んだものもあるという。その一つひとつの苔をはらい、草を刈り、整えたことに頭がさがる思いだった。
 さて、晩年の若冲と大典の不仲をかんぐる資料もあったが、私はそうは思わない。相国寺の窮乏を目のあたりにし、若冲は、己の永代供養の処遇を断ったのだと考える。大典を気遣い自分から身を引いたのだ。そして、ひっそりとした石峰寺に住まわせてもらい、絵と羅漢の制作に集中した。大火や飢饉でなくなった人たちを、祈るような気持ちで制作をしたのだろう。
 さて、若冲より三歳年下の大典は、若冲の四十九日法要を、仮の方丈となっていた鹿苑院で行った後、相国寺百十三代住職のまま翌年にみずからの生をまっとうしている。

http://homepage1.nifty.com/GANEESYA/jakt.htm                               (了)
  

2008年9月14日 (日)

『日本ビジネス作家協会』

 友人が事務局として主催する表題の協会、そこの主催する講演会に出席してみた。題名のとおり、ビジネス書を著す作家の方はたくさんいらっしゃるのだが、その他にも推理小説の作家さんあり、経済小説の作家さんあり、歴史書の作家さんありといったかんじなのだ。もちろん、私の友人のように文芸作品にも仕事をひろげようとしている人もいる。要するにせまい出版界の中でカテゴリーなどどうでも良いような印象さえうける。

それで、肝心の私は何者かというと一般ピープルだ。本好きではあるが、プロの書き手ではない。友人と大学時代に同じ文学系のサークルだったということで、この講演会に顔をだしてみようかなという気になったのだが、こうした所では自分だけ場違いな気がしないわけでもない。事実そうだろう。

 もちろん、文章を書くのは好きで、文学賞に応募したことがあったが、今はどちらかというと油絵を描いている時間が圧倒的に多い。こちらは全国公募に出品して賞をもらうなどささやかながら芽は出ている。

 さて、講演会で幾人かの方と懇談をした。その内容を提示するのが、この文章の趣旨である。例えば、歴史読本的な本を手がけているTさんは、著作を全国の某コンビニに3冊ずつおいてもらっていたこともあるという。Tさんがおっしゃるには、「もともと書くのは好きだったんですけれども、まさか自分が本を出すようになるとは思わなかったです」

「と、いいますと?」

「○○○という物書きセミナーのような場所に顔を出したらですね、そこに出版社の偉い方がいて、君、本を出してみなさい、とまあこんなわけなんですね」

「歴史系というと古文書なども調べたんですか」

「いえいえ、自分は好奇心だけは誰にも負けないような物をもっていると思ってるんですがね、そういったところをよく言えばかぎ当ててっくれたんでしょうか。素人の人が、歴史を読み、解き明かしていくといった本になればいいんだ、というんですよね。なかなかうまくはいきませんが」

 私は、ただうなづくしかない。

 Tさんは、とにかくおだやかな笑顔と物言いの方であった。

             ※
 
 また、別の方からはこんなことをうかがった。

私がかつて、全国公募の文学賞に応募はしたものの,せいぜい1次選考を通過しただ

け、地方紙の最終選考になら数度残ったことがあるとと答えると、

「いや、まずは編集者に会う方が良かったですね」とおつしゃった。

「そうですか。門前払いを食わされるのがおちというのが、昔の感覚ですが」

「もともと編集者は、有望な人を釣るのが仕事です。今の時代なら、会わない方がおかしいですよ」

 こうしたことは、数十年前に若いときに聞きたかったと思いましたよ。

「それに昔と違って、複数の出版社に同時に出しても仁義がないとか、そういうことも今はないですね。本は出しやすい環境です。もちろん、企画書を出して、OKがでる確率は低いです。でも会って話は聞いてくれますよ。それが仕事なんですから。私だって編集者にかかれば、メタクソの時の方が多いですからね。はねかえすパワーをまず身につけてください」

 私は目から鱗が落ちる感じだった。なにより、私のような者にも、普通にアドバイスしてくれることが、心地よい。みなさんも良かったら、当協会の会員になってください。
 
                ※

 そして、極めつけは、エージェントの方との会話である。 
 エージェントとは、外国では一般的なことなのだが、作家の作品を出版社に売り込む仲介をする仕事の方である。成功のあかつきには、手数料を支払うわけだ。

 さて、エージェントの彼は、いきなり「本を出すときは私どもにぜひ」とおっしゃるのである。私は、

「でも、私はただの○○ですよ」と自分の職業を伝えた。

 すると、相手の彼は真顔で、私にこう言うのだ。 
「いえいえ、○○の方は、本になるいろいろな情報をたくさんもっていますよ。たとえば、○○の方で1年間に13冊もの本を出版した方がいらっしゃいます。ですからね、まずこれを読んでみてください」

と資料を渡してくれたのである。 
 さて、その資料の中身をここに転載するのは、ここではとりあえずやめておこう。  
興味のある方、問い合わせていただければそちらのエージェントはご紹介いたしましょう。それとは別に、日本ビジネス作家協会に入ってくださるなら、私は大喜びなのですが。                                        (おわり)

2008年9月 9日 (火)

『キングダム』と『BLEACH(ブリーチ)』

 私はマンガ好きだ。
 最近、表題の2つの作品がとっても気になっている。つまり、どちらもお気に入りなのです。
 ですが、二つの作品に対するそれぞれの認識はかなり異なっています。そのことを、今日はここに書いてみるのが、この文のねらいです。おおげさにいって、比較作品論。
 さて、補足説明になりますが、二つの作品のアウトラインをおさえてみましょう。
 ご存じの方はこの辺は読み飛ばしてください。
 『ブリーチ』は、テレビや映画でもおなじみですね。作家は、久保帯人。死神の見習いになった主人公黒崎一護が悪いやつらを退治するわけですね。簡単にいうと。善対悪の構図も明快で、憎っくき相手もだんだん強くなってきてまして、ストーリーは今佳境に入っております。毎週「少年ジャンプ」を購入しております。
 そして、次なる『キングダム』の作者は原泰久です。こちらは、秦の始皇帝の近辺にいた少年信(しん)が将軍を目指すというフィクションです。簡単にいうと、信の立身出世物語ともいえそうです。 
 この作品がですね。読んでいて実に心地よいのです。
 植木等なんかの映画黄金時代の作品に共通する色合いがあります。つまり、都合のいいときに何かがおこって、信はどんどん波にのるわけですね。読み手はそれを期待しております。ありえねー、つて奇妙なリアリズムが作品の根底に流れているんですね。
 信も剣で戦うんですがね、戦いの場面はどちらかというとリアルではありません。
ありえね~、ってかんじで敵をバッタバッタと切り捨てます。 
 さて、キングダムは、善と悪とははっきりしません。生きるということは、善や悪を越えたところにあるんです。そういう境地に将軍王騎が信の対極として存在しております。 
 ところがですね、久保の『ブリーチ』はというと、かなり複雑です。剣の戦いが1ヶ月以上続くときもあるんですよ。1試合が1年以上も続いたドカベンよりは、ましなんですが(笑い)
 よく言えば、突き詰めてものを考える人なんですが、裏の裏の裏みたいなものがありましてね。先が読みづらくてイライラしてしまうこともあります。悪くいえば、思わせぶりが多くて、観客としてはいらいらしてしまうんですよ。「いい加減、はっきりしろ!」なんて怒鳴りつけたくなります。
 ま、再確認なんですけども、私はこのブリーチも大好きです。これは誤解のないように。このために「少年ジャンプ」を毎週購入しているようなもんなんですから。(終わり)
  

2008年9月 7日 (日)

『つるべおとし』ってどういうこと?

 「つるべおとし」をネットで検索するとまず目につくのが妖怪に関する記事です。もし、そのことを、この記事に期待した方には申し訳ないと思います。
 九月になると「秋の日はつるべおとしですね」などと挨拶で言ったりしますよね。つるべとは、井戸のおけのこと。これがすとんと落ちるように日が落ちてしまうと形容しているわけです。昔の人は情緒的にこんな風に表現したのですが、私はこのことについて大げさにいえば数値で解析してみるのです。(笑)
 さっそくですが、みなさんは、九月でどれくらい日の入りが早まるのか具体的にご存じでしょうか。実に九月は、この一月で45分も日が短くなるのです。他の月は、だいたい一日1分早まったり、遅くなったりが相場なのですから、三十日で三十分。その1.5倍の早さで変化するわけですね。まさに「つるべおとし」です。
 ええと、このことは、私は天文手帳というものを持っていまして、それを眺めながら書いているわけです。その日その日の日の出、日の入りなどがのっているわけです。(注 東京が基準となっていますから、各地点での補正は当然必要です。以下の数値もそのように考えてください)
 あらかじめ断っておきますが、太陽の日周運動の早さが変化するということではありません。地軸の傾きによりその日その日に日の出の方角や日の入りの方角が変化します。それによって太陽が空を移動する軌道の長さが日々変化するわけでして
おおまかにいうとそれが昼の長さになるわけなんですね。
 天文手帳には、毎日の日の出日の入りといった無味乾燥の数字が並んでいるわけですが、これがまたじっくり眺めているとなかなか面白いものなんです。つまり、
その数値の変化が均一でないために、奇妙に感じられ私には面白いのです。 
 例えばですね、話が「つるべおとし」とはそれますが、天文手帳によるとこういうこともあります。
 一番日の短い日は冬至だということは、大概の人が知っていますよね。この日の出が6時47分です。ところが十日ぐらいたった元旦の日の出はたった三分の変化しかないのです。つまり、1月1日の日の出は6時50分なんです。もう少しくわしくみていくと、1月2日から13日までずっと日の出は6時51分なんです。14日から17日が6時50分。18日から20日まではずっと49分です。
 つまり、冬至から一月間の日の出の変化はたったの2分なんです。
 ただし、日没はこの1月全体では30分も遅くなるんです。
 日の出はほとんど変化していないのに、日の入りはかなり変化するというのも妙といえば妙な変化ですね。  (おわり)

2008年9月 4日 (木)

『太平洋は水たまり?』   

                                                                                     石狩 虹太


 
作家Mのエッセイが好きだ。(注 丸山健二 芥川賞作家)
 エンデューロバイク(本格的なオフロード用のもの)やジープを乗り回す。思いついたらオーストラリア大陸だろうが、砂漠の中をエアーズロック目指し、Mはバイクにまたがり疾走する。私が、オフロード車で近くのスーパーに買い物に行くのとは訳が違うのだ。Mのエッセイにはかっこいい男の生き様が描かれており、私はそこに共感したものである。
 Mの父は、日本の伝統的な叙情性にとんだ小説群をこよなく愛した人らしい。少年時代のMはけちくさい日本の私小説などを否定し、あるとき父の蔵書の中で唯一の外国文学『白鯨』に瞠目する。男ならエイハブ船長のように生きなければならない、そう思い、彼の血が騒いだのだ。行動派の作家と称するMの作品群とエッセイは、みなこの『白鯨』をスタートラインとしているようだ。地方に居を構え、厳しい自然と対峙するところから生まれる氏の作品は、孤高の頂さながらである。
 さて、『白鯨』にあこがれ海にあこがれた少年のMは、視力の点で船長を諦め通信士をめざす。しかしながら、巨大タンカーなどの近代的な船は悠然とした航行を行い、太平洋すら「水たまり」にしたことを知るわけである。その後のMは紆余曲折し、作家となる訳であるが……。
「この20世紀の世界では、太平洋さえ水たまりだ」
 Mのこの吐き捨てるような言葉に、私は打ちのめされ、共感し、その言葉が頭の隅にこびりついてしまったのである。
 ところが最近、私は、本物の船長に話を聞く機会があった。貨物船の船長としての仕事の話や、船の操縦方法などを聞いていると、こんな疑問が湧いてきたのである
 
――はたして太平洋は本当に水たまりだろうか?
 コンテナ船をあやつるのは高度な技術を要すると説明を受けた。つまり、コンテナの形は同じでも中の積み荷によって船の重心がその航海の都度変化するのだ。その変化は、船をあやつりながら、船長は掴んでいかねばならない。舵をとり、船の動きを鋭く観察することによって、重心を把握し、船体を巧みにあやつっていくのだ。神業ではないか。
 自分の船だけではない。そばを通る船との距離、相手の船の大きさ、動いている方向、そして潮の流れなどをつかみながら、操るのだという。そういう意味で、例えば、インドネシアのマラッカ海峡を通るのは、ほとんど曲芸の世界らしい。もちろんあやつり方の肝心なところは本には書いていない。人に教わるわけでもない。マニュアルもない。体得した者だけが船長となれるのである。二十一世紀の今も、船乗りの世界というものは、そういう世界なのだ。
 
数々のハイテク機器を積み込んではいるが、それにすがる気持ちはないという。例えばGPS(車のナビにもありますね)も故障することがあるから、頼りにしているのは未だに北極星だというのだ。GPSなんぞに頼ると、どこぞの国の船のように東京湾で座礁したりするという。
 さらには、船を操るだけでなく様々な人々を統率するのも船長の役目だ。日本の船も、乗組員はとうに国際化の時代となっている。いい加減な者は情け容赦なく次の港で降ろしてしまうのをためらってはいけない。コロンブスや海賊の映画を見ているような話ではないか。
 
さらに、昨今、日本船籍の船が海賊の被害にあう確率が激増している(ここ10年では120件程度と朝日新聞1999年9月1日朝刊)という。船長など数人の日本人が始末され、国籍も名前も変えられた船が太平洋を行き来しているのだ。こんな風に説明を聞いてみると、「なあんだ。大航海時代とあんまりちがわないなあ」と私は思ってしまう。これを読んだ方の感想はいかがだろうか。
 Mがこの貨物船の船長の話を聞いていたら、作家にはならず、船に乗り込んで海賊を退治していたかもしれない。そうなると、私は、Mの小説にもエッセイにも巡り会えなかったのだろうが……。

                     
 *

 怖い話を一つ付け加えよう。
 巨大な船を動かすのは油圧による機器である。圧力のかかった油が巨大な船体の各部分を動かし、結果として船は航行することができる。
 ジャングルジムのばけもののようなものが船体のすみずみに張り巡らされており、その中を高圧のかかった油が、流動している。ところが、船体が老朽化したり点検をきちんとおこなわないと、パイプになんらかの穴があき、そこから油が吹き出すのだという。当然、ものすごい圧力がかかっているために、1ミリの数分の1の穴から吹き出す油は、メスのような凶器となってしまうという。
 油漏れの箇所を、それと知らないで通ったことにより身体の一部を切断されてしまう例も珍しくないという。

                           
 (了)

2008年9月 2日 (火)

相性の良い名前とそうでない名前

 表題のこと……、これって私には本当にあります。

 どういうことかというと、生涯親密であった友人の名字と同じ名字の人が、姉の旦那さんだったりします。それで、その方の名前が○二なんですが、私の父の名前は、○一だったりします。

 それから、女房の名前が△江なんですけど、これとおなじ読み方の名字の方に仕事で助けてもらったりしました。こんなことを上げるときりがないです。 うん。これって、確率の濃度の違いのようなもので、偶然なんでしょうね。 しかし、苦手な名字や、なんとなくうまの合う名字というのもこれまたあるわけでしてね。こういうこと本でも読んだことないんですが、あると実感しているんですよ。

2008年8月27日 (水)

みかんの栽培と地球温暖化について

  
 
 埼玉県Y町は、秩父山系と関東平野の境界に位置している。風光明媚な町であり、古くは戦時中、安井曾太郎などの画家が疎開していた所である。
 さて、そのY町のF地区は、みかん栽培の北限であることでも知られている。仕事でそのとある観光農園におじゃました。ご主人は七十代の方だが、長身でがっちりとした体格である。その昔はスポーツマンだったということである。以下、その時お聞きしたことを簡単にまとめてみた。

                 ※  

私「みかんの木の寿命はどれくらいなんですか?」
ご主人「人間と同じくらいだと覚えておくとよいです..……まず、苗は三年ぐらいで、実がつきます。けれども、そこですぐに実をならせると木が弱ってしまう。だから、結実させるのは五,六年経ってからでしょうか。木が成人になるのは三十年ぐらいで、その頃が一番実りのよい時ですね。(観光園としての)採算を考えなければ、六十年くらいは元気ですよ」
 私は相づちを打つ。心の中で、みかんとはつながりはないが、そういえば桜の見頃も三十歳ごろだというよなあ、などと思う。また、こうも考える。イネは、一年草だから刈り取れば冬の手間は少ないが木となると一年中手間をかけるわけだ。そのことをご主人に感想として述べてみると、細かな話をしてくれた。そして、その話の内容は、地球の温暖化と関わりがたくさんあった。
ご主人「たとえば、カメムシは、みかんの敵です」
私「カメムシ……。あの変なにおいを出す虫ですね」
ご主人「はい。あの虫です。このカメムシがみかんの皮から汁をすうとですね、みかんの皮がうすくなってしまうんですよ。むきにくいし、商品にはなりません」
 この虫の駆除に農薬を使うのはやむおえないらしい。
ご主人「ところで、カメムシも緑色のと茶色の種類とがあります。この辺りだと緑色のが在来種で、茶色いのが南方系です。それで、温暖化で数が変化してきている。茶色いのが
増えているんです」
私「緑のより茶色の方が大きいんですか?」
ご主人「はい」
ということは、手間もかかるし、農薬の量も必要だろう。

                                     ※

ご主人「温暖化というとカミキリムシの駆除がかなり手間取るようになりました」
私「カミキリムシというと長い触角をもっている昆虫ですね。カブトムシやクワガタ虫と同じなかまでしたね」
ご主人「その幼虫がみかんの木の幹の中で育つわけです。木を食べながらトンネルをほって進むわけですから、幹の中はくりぬかれてしまうわけですね」
 クワガタムシやカミキリムシの幼虫がクヌギの木を食べるのを知っていたが、それが、なぜみかんの木をねらうのだろうか。みかんの木は栄養がたくさんあるので、標的にされるのだろうか。
ご主人「カミキリムシは、みかんの木の根元に卵を産み付けるものですから、それを駆除するわけです。こちらはね、地面をずっとはいつくばるようにして、一つ一つ木を調べていくわけですよ」
 苦労をされながら作業をしているご主人の姿が目に浮かぶようである。
ご主人「それでも、以前は年に2回くらい(駆除)すればよかったんですけれどもねェ。それが、この頃は六月下旬から九月までずっとしなければ、ならないんですから」
 私が、これも温暖化ですか、と聞くとそうですね、とご主人はうなずいた。

 私は一番気になっていることを聞いてみた。
私「ところで、このように温暖化が進むと大変ですね。木の寿命が人間とだいたい同じだということ。せっかく実をならして採算があうのに何十年もかかるというのに、みかんの木の種類を温暖化に合わせて買えていくのは、手間も資金もいるわけですよね」
ご主人「そうですね、品種をそうそう切り替えることもできません。……和歌山県などでも数年前、温暖化によって商品として出荷できない実が増えているというニュースがありましたね」
 これ以上はここに書くのはヤボというものである。 
 
                                ※

 さて私は、半分趣味、半分仕事で七味とうがらしを作っている。その件で、ご主人に風布(ふうぷ)みかんの原種のことを最後に聞いてみた。
 小粒ですっぱいみかんである。ところが、これが七味とうがらしを作るのに重宝なみかんなのである。干した皮はすりつぶすと黄色い粉になり、ユズよりも香りが良いのだ。
  このすりつぶすこつを、ご主人にお聞きした。その詳細をここに書くのもやぼであろう。どうしても知りたい方は、埼玉県Y市のみかん園を訪ねると良いだろう。(終)

2008年7月29日 (火)

岩舟山

 Iwahune 栃木県佐野市の近くに岩舟山という山があります。

5年追い続けました。小さな山なんですけどね、存在感があります。

2008年7月26日 (土)

受賞

 絵の全国公募で、賞をいただいた。

 ありがたい。

 めったなことではないので、1つの節目になった。

2008年7月 8日 (火)

子規

 当然、正岡子規なんだが、年寄りになってみると「死期」と聞き間違えて

しまう。いちはつの花咲き出でて我が目には……。

 ああ、夏を迎えることができぬ春の何とせつなく、自己中なことか。

西行しかり。

しかし、私には、また別の見方も出来るのである。何もかも肯定する

潔さ、そして老いた澄んだ心が見えてくるから不思議だ。

 年老いた身体と心こそ、無垢なのだ。そうに決まっている。

 それでなければ、子規にあれほどの仕事ができたであろうか。

  私もかくありたいものである。