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2009年5月 8日 (金)

「老夫婦のテーラーその2」

「老夫婦のテーラーその2」

 老夫婦のテーラーの話にはこんな後日譚がある。
 翌日の夕方、私はテーラーに立ち寄った。夕方には上げておくという店の主人の約束だったから、午後4時10分ほど前、少し早いとは思ったが店のドアを開いた。昨日もお茶を飲みながら時間の経つのも忘れてしまうほどだったので、そんな風にしているといいだろうと思ったのである。
 先客は2人いた。この方たちは店の奥さんの話友だちである。近所の四方山話をとめどもなく話してくれる。自分のことも過去現在未来と自由に縫い合わされていく。
 その間、店の主人はミシンに向かっていた。実は、私のズボンはまだ仕上がっていなかったのである。理由を説明してくれたところによると、バンドの通すところが、このズボンのメーカーは1本少ないというのだ。それで、両サイドに一つずつ予備の布から作ったものをつけているというのだ。実はその二本だけの問題ではなくて、取り付けの間隔もあるから、ベルト通しのほとんどを外して付け直していたところだったのである。これは、もとはといえば、私のふくよかな(笑)体型を考慮しての作業なのだろう。まだ、裾直しには手が回っていないのである。
 どんな仕事をするのか興味もあったので、ベテランの女性たちの会話を聞きながら時々ご主人の手元を観察させてもらったのである。
 なにせ八十を過ぎているご主人は、おでこにゴーグル型のルーペをつけている。
手元の作業が細かいときは、それでのぞきながらやるのだ。ミシンには、裸電球が取り付けられている。裾の部分を裁ってからも実に仕事は丁寧にたんたんと進んでいく。白い糸で仮縫いをしているのは、これを目印にして縫うためである。糸も何種類もある。何号とか何番とか印刷されている。手で縫うときは、その絹の糸をいったんアイロンの角に当てながら引いている。これは糸にアイロンをかけているのだろう。
 ミシンの各部分に糸をセットするときは、主人も手がふるえている。難しいことを注文してしまった私はなるべく直視しないようにする。ミシンも四種類くらいある。どうやって使い分けているのか、素人の私には分からない。靴当ての部分なども手作りである。そうして、縫い終わる一区切り一区切りに、主人はズボンにアイロンをかける。
 お皿に入れた水を刷毛につけると、ズボンのその部分にかぶせた布を少ししめらせる。それからアイロンをかけるのだ。その間、ズボンは大きなお饅頭のようなクッションのようなものの上で、実に折り目正しくなっていくのだ。私は何でも物珍しいので、その大きなお饅頭をさわってみたりする。そうすると主人は笑いながら、しかし無言で仕事を進めていくのだ。実に慎重で丁寧なので、見ていると引き込まれて息がつまるような作業の連続だ。
 こうして、ズボンが仕上がったのは七時頃である。実に三時間。通常の野球の試合よりも長かったが、私は飽きなかった。申し訳ないという気持ちだった。そういえばお茶菓子でもかってくれば良かったな、などと思った。
 奥さんが、ぽつりと言った。
「私は婦人服専門だからね、裾上げなんか三十分なんですよ。いい加減だしね。婦人服はゆったりしても許されるから、でも、紳士服はそうはいかないからね。この人は手を抜かないんです」
 事の最初から最後まで、外では雨が降り続けていた。車で送ってくれるというのを断ると、とれたてのエンドウ豆をつつんで持たせてくれた。優に二回ほど我が家のおかずになりそうなほどの豆だった。(おわり)
   

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