« 「てっかんビール」 | トップページ | 「ファーブルの真実の姿」 »

2008年11月30日 (日)

「細密画のワイエスと緊縛の荒木経惟(のぶよし)」

 渋谷のbunkamuraまでアンドリュー・ワイエスを見に行った。ワイエスの作品は、その昔、秩父で「決闘」という作品を見た。海岸近くにある岩と鯨取りの銛が描かれていた。私の大好きな作品であった。
 今回は、ある細密画の画家に勧められて、行く気になったのだ。
 場所は銀座、例えばリンゴと鉄パイプやボルト、釘の構成である。アクリルであるというが、非常に緻密な作品世界だ。柿の作品もあった。その実の切り取った後が鋭利であったのだが、ふれれば手をきられそうなその切り口が、単なる切り口ではなくて、ボルトや鉄パイプなどと同列の人工的な何かに感じられるほど、作品世界は独特のものをもっていた。
 運良く、その作家と会話することができた。作家はワイエスに共感するものがあるといった。作家の作品も、ワイエスも、私には雲の上の存在である。そんなことをいうと、作家は笑うのであった。……
 さて、bunkamura。
 今回の催しは、一つ一つの作品について、水彩画、鉛筆画、テンペラ画が並んである。実にねばり強く執拗な制作態度ではないか。画風そのものではないか。それらは、一応、テンペラ画を本作品とでもいうのならば、その他の作品は「下絵」と呼ぶこともできるかもしれない。事実、私はそのように納得しながら、途中まで作品を鑑賞していたのである。しかし、姉を描いた絵は、鉛筆画で終了していた。作者はこの絵は完璧であるという。つまり、テンペラ画を描く必要はないということだろう。
 そのうちに作者へのインタビューVTRを見る場所があった。そこで、作者は、テンペラ画がゴールというわけではない。自分で勝手なルールをつくるのは、危険だと言っていた。ワンパターンはないというのである。 
 慣れでは、作品を制作していないのである。なんと謙虚でどん欲な主張であることか。
 さて、ワイエスやフェルメールが日本人のお気に入りであり、画家もそのようにして彼らを手本にし、追い求めることが流行のようなかんじとなっている。二人の作品に関する共通点は、自分の身の回りのものを丹念に描くということである。
 しかしながら、私は実物を見ながら、本物と偽物(まねっこというか)の違いがはっきりと分かったのだ。
 自分の身の回りを丹念に描くのならば例えば写真を写すことで、かなり肉薄できるような錯覚があるだろう。そこが危険なのだ。
 ワイエスにしても、何も写真を見て描いたような作品は一枚としてないのである。
まず、感じる自分があって、作品を制作しているのだが、モチーフがたまたま自分の身の回りのものということであって、着眼点や制作態度というのは、石ころのようにどこにでも転がっているようなものではないのだ。はやりを追い求めている人たちは、それが、わかっているのだろうか。
 例えば何気ない生活の中に、奇妙な独特の世界を描きだす小説に似ていて、その描写力たるやワイエスやフェルメールはとんでもない巨人なのだ。ベニスやパリを描かなくても自分の世界を持っているのだから。

 さて、渋谷から地下鉄で一駅で表参道に行った。南青山で、写真家の荒木経惟の作品を見る。高校生の頃、「ガロ」というコミック雑誌を読んでいた。その中で、荒木氏の作品は楽しませてもらっていた。今回、彼の妻の「陽子」の写真集を買った。
 さて、妻の写真で飯をくう。なんとお手軽なことを、などと考える人もいるかもしれない。でも、これもワイエスやフェルメールと似たようなもので、誰も自分の奥さんを裸にして写したり、ましてや濡れ場を公表できるものではないことは一目瞭然ではないか。ましてや、それは荒木の作品世界であって、まねすることができたとしてもその人の作品世界ではない。などと考えれば、オリジナルの芸術というのは何とすごいものなのか。こういうため息で、今日の文章は終わりにしたい。 

(おわり) 
 
 

« 「てっかんビール」 | トップページ | 「ファーブルの真実の姿」 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1067434/25789060

この記事へのトラックバック一覧です: 「細密画のワイエスと緊縛の荒木経惟(のぶよし)」:

« 「てっかんビール」 | トップページ | 「ファーブルの真実の姿」 »